曹操来了!

輝け、青春!

 面接・小論文

消費社会1

 消費社会とは、必要のないものを買わせる社会で、そのために、消費者たちを『欲しい』という気持ちにさせる社会である、って、授業で説明したりしていますが、自分がはまるとは思いませんでした。

 つい先ごろ、Windows Vista というのが発売されました。
 実は、私のパソコンはめっちゃ古く、ずっとウインドウズ98を使っていたのですが、いいかげん買い換えたいと思い、パワーアップを考え始めました。ところが、考えている最中、あと数ヶ月すると新しいウインドウズが発売されると聞き、それに洗脳されてしまったのです!新しいのがでるなら、当然、それを待ってから買おう!と。

 けど、実際、パソコン購入の世界では常識となっていますが、新製品というのはすぐ買ってはダメで、落ち着いてから買うのがベストです。最初の頃はトラブルや必要部品、ソフトがはっきりしなかったり、最新情報が少なかったりで非常に苦労します。だから、普通は出てから半年〜1年後に買うのがベストなんです。

 ところが、そんな常識さえも『欲しいパワー』の前では消滅してしまいます。

 その常識を守らなかった私は、今、非常に苦労しています。

 何か不都合が生じて、インターネットでその問題を解決しようと検索しても、検索で引っかかるのはほとんど古い情報です。特殊なページへ行けば載っていますが、それも情報量が不十分です。そんな状況では必要な情報に至るまで、時間がかかってしまいます。
 趣味でパソコンいじりをし、それだけで自分はコンピューターエンジニアか何かと勘違いしているオツムの足りない馬鹿なら、それが快感なのでしょうが、コンピューターを真面目に使って仕事をしている人間からすれば非常に迷惑です。無駄な時間が激しい経済的損失生み出す世界の人間からすれば、非常に無駄で、くだらない時間を浪費させられてしまいます。

 検索だけではありません。
 時間をかけて情報を収集して結論として『これは使えないアプリケーションなんだ』と分かった段階で、さらに買いに走らなければなりません。いいかげん頭に来て、発売元へメールで問い合わせ『もう一度プログラムをアンインストールしてインストールしなおしてください』との返信にしたがってやったところでダメだった場合、結局、『ダメ』という結論で、これまた新しいものを買いに行かなければなりません。

 アプリケーションだけではありません。
 周辺機器、印刷機からスキャナー、無線LANまで、使えるものと使えないものがあります。
 ネットからドライバをダウンロードすれば大丈夫、とは、頭が足りないくせに自分がコンピューターエンジニアか何かと勘違いしている馬鹿の言い草です。
 実際にやってみれば分かります。
 ドライバーダウンロードをする以前に、そこへ至るのにも時間がかかるし、そこへ至ったところで『使えない』という結論へ至るのにも時間がかかります。自分が持っている製品がVistaに対応しているかどうか、膨大な量の製品リストの中から探すのにも非常に手間がかかります。それを見つけ、自分の製品がVistaに対応していないことが分かったところで、まともに仕事をしている人間はおいそれと買い物にも行けません。その間、やはり時間が無駄に過ぎていきます。

 マニアとかオタクと呼ばれる生き物たちは、何も知らないのに、知っているふりをするものですから、真面目に相手をしないようにしましょう。
 本当に知っている人間のことをマニアだのオタクだのとは呼びません。そういう人間のことを日本語では『専門家』または『エンジニア』と呼びます。

 性能的には素晴らしい製品なのでしょうが、もう少し待ってから買いましょう。








頭を使って考えよう

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 小論文を書くと言うことは、知識を繋げる作業だと考えましょう。

 ビックリマンチョコというのがあります。そして、私たちのころは仮面ライダースナックというのがありました。

 共通するのは?

 共に、それについているオマケ(シール、カード)目当てで買うということです。そのおかげで、カードだけとってスナックは食べずに捨てる子どもがいるという具合に、社会問題になりました。その問題の中心は、モノを大切にしない子どもたちというものでした。

 食べ物を粗末にする。

 はたして、そうなのでしょうか?

 なぜ、子どもたちがスナック菓子を捨てるのが非難されるのに、マクドナ○ドが数分間でハンバーガーやフライドポテトを捨てるのが非難されないのでしょうか?

 そこで、今まで勉強したテーマを思い出すのです。何かこの現象と繋がることはないでしょうか?

 ありますね?

 先日、話した大量消費社会の問題点です。

 結局、子どもたちも大量生産・大量消費社会の犠牲者たちなのです。不要なものを欲しいと思わせて何とか買わせようとする大人たちに操られているだけなのです。

 先日、デパートのゲームセンターの機械の前で、小さな小学生たちがシールみたいなものを売る機械の前で、必死に買っていました。いや、必死に金を使っていました。恐ろしいと思いました。

 チョコレートを捨てる、スナックをすてる、もったいない?

 大金をはたいて買ったのにろくに使っていないパソコンやダイエット用品と、どちらがもったいないでしょうか?

 子どもを非難する以前に大人たち、社会の問題なのです。




 新聞が問題提示をしていたら、まず、疑いましょう。果たしてその通りなのか?疑ってみるのです。そして、様々な視点から考えてみましょう。

 人の話でも鵜呑みにするのではなく、疑問をもつのです。これは相手を信じるな、というのではありません。どんなに親しい相手だって、勘違いしているかもしれません。まず自分の頭で考えるのです。





授業ノート(ボランティア)5

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志望理由書・作文・小論文の授業

 ●ボランティアと個人

 先日の授業では、日本人のボランティアについて話をしました。

 市民意識の話をしました。個人としての自覚です。ここらへん日本人は苦手で、どうしても個人よりも全体、所属する集団を優先的に考えてしまいます。

 そんな話から、ボランティアについてみてみました。


 まず、私たちは『ボランティア』という言葉に対しある種の偏見を持っています。それは「無報酬で行う高潔なる仕事」という偏見です。

 大間違いです。

 『ボランティア』の本来の意味は『志願』という意味で、個人が自発的に行う活動のことを言います。
 スターウォーズ・エピソード1という映画の中で「私たちはボランティア軍なので、姫をお守りできません。」みたいな台詞が出てきました。それを見た時、「はぁ?」と感じましたが、これは私たちの認識の歪みにすぎません。
 朝鮮戦争が起きた時、北朝鮮が38度線から北へ追いやられ、もうおしまいだというときに中国が介入しました。いや、中国の中のボランティア軍、つまり、『義勇軍』が参加したのです。
 こういった私たちの認識を、まず改めなければなりません。


 『個人が自発的に決意選択し、人間の持っている潜在的能力や日常生活の質を高め、人間相互の連帯感を高める活動』これがボランティアなのだそうです。つまり、個人が自発的に行い、人間同士の連帯を深める活動、これがボランティアです。決して無報酬で献身的な仕事をする事ではありません。
 困っている人たちを満足させる。身体が不自由なのは彼の責任ではありません。だから、身体が不自由な人間がいたら、それを help する(“手伝う”であって“助ける”ではない)のが、個人としての、当然の義務。そうやって個人と個人が連帯し、社会をよりよくしていく、それがボランティアです。


 しかし、個人と個人連帯よりも、私たちはまず『個人』を作ることから始めなければなりません。

 日本人は個人を独立したものとは考えず、何かと周り気を配るようにコントロールされます。子どもの時から“手伝い”を“助け”と歪めて受けとめ、遠慮を心がけるように洗脳されます。


 従兄がなくなった時の話です。

 喘息にかかっていた従兄が、急な発作が酷く救急車で病院へ運ばれ、一命をとりとめました。ところが、退院後、しばらくして再発した際、『また救急車を呼ぶのは悪いから』と呼ばなかったそうです。そして、他界しました。

 これは極端な例ですが、私たちは子どものころから要らぬ心配をするように洗脳されるのです。『世間様に迷惑をかけてはいけない』という錦の旗印の下、一個人の権利より全体の発展を考えるように仕向けられるのです。

 学校教育がそれを実行しています。

 集団生活という言葉でコントロールしています。腹痛を起した子どもを『集団行動』の名の下に虐待するのです。ここまでは完全な軍隊教育です。そして、その軍隊教育を悟られぬよう『周りに迷惑をかけない』『周りに気を使う』というまやかしの美徳を掲げ、それと同時に『困っている人間を助けようとする行為は、高潔なる行為、素晴らしい、神様か天使様のような行為』といった歪んだ認識を植えつけ、洗脳して行くのです。

 そして、できあがったのが現在の日本社会です。



 『ビューティフル・ライフ』というドラマがありました。

 キムタクが出てたドラマです。
 ドラマの中でヒロイン役の障害者、常盤貴子が、キムタクにひかれて行きます。心ひかれて恋に落ちます。しかし、恋したのはハンサムだからではありません。キムタクが、今まで日本社会や日本の教育で『素晴らしいこと』として洗脳されて来た『偏見』を持っていないから、心引かれたのです。

 ドラマの中で常盤貴子が言います。

 「あなたって変な人ね。普通の人はね、私に“頑張ってね”とか“何かあったら言ってね、私にできることならなんでもするから”とか言うの。けど、あなたは違う…。」

 みたいなことを。

 『障害者は可愛そうな人』と考えるのは偏見以外のなにものでもありません。だから、思いやりの心を持って、など言語道断です!それは差別と偏見以外の何物でもないのです。

 「可愛そうだから助けなければいけない、その助けることは高潔なる精神の現れ、素晴らしい行い」

 馬鹿もやすみやすみ言いましょう。

 障害者だろうが御年寄りだろうが、相手は立派な『個人』であって、その基本的人権を尊重しなければなりません。『社会的弱者』とか『可愛そうな人たち』というレッテルを貼り差別してはいけないのです。完全な人権侵害です。
 私たちは、このような不当な差別と断固戦わなければならないのです。

 当り前の、ごく普通の、一個人として接しましょう。高齢者だろうが障害者だろうが、良い奴もいれば嫌な奴もいるのです。酷いことをすれば怒り、良いことをすれば素直に喜び、一人の人間として私たち、つまり、社会が受け入れて行かなければなりません。
 『相手は社会的弱者だ。だから、虐めてやろう』という発想と『相手は社会的弱者だ。だから、助けてやろう』という発想は同じことです。彼らの存在を特別視するのではなく、当り前のこととして受けとめていく社会を作らなければなりません。
 ドラマの中で、キムタクが何気なくやった行為でしたが、それがこのドラマのメッセージだと思います。たとえ相手が障害者であっても、むかついたら怒り、自分の立場を立てにとれば怒り…。



  常盤「こらぁ、障害者をもっと大切にしろ!」

キムタク「どこが障害者なの?…図書館では静かにね!」



 学校教育とやらの恐ろしさを考えると、心底、ぞっとさせられます。




授業ノート(民主主義)

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 ●民主主義

 先日の授業では、個人と全体の話をしました。

 戦後、日本はアメリカGHQのもと、民主化をすすめました。民主化といっても、アメリカ型の民主主義をとりいれようとしたのですが、それが教育では馴染まなかったお話は前日にしました。
 今日は、少し視点を変えて、まず、民主主義の解釈についてお話します。


 今日、家に帰ってニュースを見ましょう。ちょうど6カ国協議のニュースで持ちきりでしょう。

 6カ国、どこの国だか言えますか? 

 言えない人は、しっかりと確認しておきましょう。

 その6カ国の中心として注目されている北朝鮮ですが、実は、北朝鮮とはアメリカ側の国々がつけた名称で、国の正式名称ではありません。正式名称は『朝鮮民主主義人民共和国』と言います。

 北朝鮮も『民主主義』と名乗っていますが、ちょっと雰囲気が違います。私たちからすれば「どこが民主主義なの?」と言った印象を受けてしまいます。

 ではなぜでしょうか?

 それは、それぞれの国で「民衆」のとらえ方が違うからです。


 まず、私たち日本の民衆とはどういうものでしょうか?

 そう。前述、アメリカ型民主主義をとっていますので、日本で言う民衆(民主主義)とは、集団が個人を抑圧しない、個人の基本的人権が最優先に考えられる国です。そこで、少しでも基本的人権を侵害するような事態に陥ったら、即、問題になります。
 基本的人権が守られる国、というと、反対意見が出てきそうです。「どこが守られてるんだ?」と。そうです。完全に守られるにはなかなか難しいですね。けど、難しいけど国民の不断の努力によって、最大限に守られるようにするのが理想と掲げている事柄です。

 さて、では北朝鮮の民主主義とはどういうものでしょうか?

 北朝鮮に限らず、社会主義と呼ばれる制度をとっていた国々では民衆とは個人が集まってできた集団であると解釈します。つまり、個人が集まってできたのが民衆なのだから、その民衆全体を最優先に考えるべきだとするのです。

 民衆=集団=社会

 だから、社会全体の利益を最優先にし、一個人の人権は二の次と考える。全体のためなら多少の人権無視もやむを得ない、こう考えるのが『社会主義』における民主主義なのです。

 いかがでしょう?

 こう考えてくると、資本主義、自由主義だのと言っている私たち日本人、非常に社会主義の国々に似ているのです。

 あくまでも資本主義、自由主義、民主主義の国で、一個人の人権が最大限に守られる国ですが、そこに住んでいる私たち日本人自身の考え方が非常に社会主義的です。
 ただし、社会全体というよりは、自分の属する集団(会社など)の利益を優先し、一個人を犠牲にしているといったところです。


 最近の若者たちの世代は非常に個人主義的だといわれています。しかし、前述の如く、もともと頭の中が社会主義的な日本人が、アメリカ型個人主義、民主主義を受け入れたものですから、さまざまな問題が起きています。
 そんな問題を扱ってくるのが小論文の傾向です。





授業ノート(教育)

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 ●教 育

 先日の授業では、日本社会の特徴と欧米圏の特徴を話した後で、教育の話をしました。


 学校を卒業したら一生使わないような知識をなぜ学校で学ぶのでしょう。それは、日本社会の同質性・均質性と関係しています。

 日本の伝統的教育とは、良い社会人をつくる教育でした。つまり、良い大人を作るために厳しい校則で管理し、体罰さえ行い、良い大人を作ろうとしてきたのです。
 ところが、良い社会人、…新聞を読んでみましょう。酷い大人たちが大勢います。どこが良い社会人を作る教育だったのでしょうか?その反省と時代の要求から、現在の教育は大きな変革を求められています。


 小論文等では、欧米圏の教育が日本と比較されます。

 欧米圏では、良い社会人を作る教育ではなく個人をつくる教育が重視されます。『欧米圏の発想』で話したとおり、欧米圏では『社会とは個人の集まりであって、その個人を作らなければならない』という発想なのです。そこで、個性や異質なものが尊重されます。対立が尊重されます。違うということが重視されるのです。
 また、学業は学生の意欲中心に展開されます。
 やりたい奴はガンガンやればいい。そして、やりたくない奴はやらなければいい。そのため、飛び級なんてのが当り前ですし、留年・退学なんてのも常識的に行われます。
 「彼は本当は良い子なんだ。」なんて言いながら、留年や退学を必死に避けようとする日本の教育とは大きく異なっています。

 良い大人をつくる日本の教育では、平等主義、子どもたちには全員平等に無限の可能性がある、というのが前提です。平等に才能や可能性があるのだから、みんなが差別なく同じレベルの知識を学習しなければならない、というのが日本の教育です。
 ある日、突然、数学に目覚める子どももいるかもしれない。ある日、突然、政治学に興味を持つかもしれない。だから、成績で差別することなく、全員平等に同じことを教える。努力すれば必ず報われる!やればできる!と教えられます。そして、人生で最も輝いている時間を、その後一生使わない知識の丸暗記に浪費させられるのです。やりたいやつがやればいい、という欧米圏とは大きく異なっています。
 しかし、時代とともに、求められるものが変わってきています(『定常型社会』で学習)。


 そこで以前、言われたのが『ゆとり教育』です。

 失敗だ何だといわれていますが、その発想は間違っていなかったと思います。問題は、それに馴染めなかった平等主義の先生や大人たちでしょう。
 『ゆとり教育』は、決して生徒たちに楽をさせるというものではなく、あくまでも『ゆとりを持たせて学習意欲を尊重する』というものでした。ところが、『みんな平等、みんな同じ』的発想から抜け出せない大人たちがこれらの考えを歪め、問題を大きくし、嫌がる子どもたちを煽りました。大失敗ですね。
 勉強なんて、やりたいやつがやればいい。勉強できない奴は、勉強以外の能力を見つければいい。ところが、その発想が日本社会には馴染まないのです。
 リョーシン的ニホンジンとやらが、平等主義を掲げ、可愛そうだからと、成績を操作したり、ゆとり教育から生まれる良い意味での競争や個性を、必死に潰しにかかりました。

 勉強が出来ないという基準だけで『落ちこぼれ』とレッテルを貼り、社会から排除しようとする習慣が無くならない以上、どんなに優れた教育システムを考え出しても無駄でしょう。

 ちなみに私は受験屋ですが、ゆとり教育の目指したものには大賛成でした。
 円周率の話も、レベルを落したのは基準を落しただけで、それ以上学びたい人間は自分でやればいいだけのことです。何も、勉強をやりたくない人間を否定して、役に立たない知識を強要することはありません。間違っても円周率など日常生活には何ら役に立たないのですから。
 …あ、多くの受験産業は、口では否定しても『勉強ができる人間は素晴らしい人。勉強ができない奴は人間のクズ。』という意識を社会に植えつけています。…って、それが商売ですから。

 日本の教育は『みんなおんなじ』『みんないいやつ』『みんな仲良し』『お手てつないでチーパッパ』でした。その結果、現在では、意見の衝突などありえない歪んだ個人主義とやらが蔓延りはじめました。
 『人それぞれ』という錦の旗印のもと、せいぜい見栄の張り合いをする程度、これでは何ら進歩も成長もありません。それが許されたのは平等主義、平均主義、異質なるものを社会から排除しようとする時代だけでした。

 これからは違います。

 こういう間違った時代を、君たちの世代が崩して行かなければなりません。

 国境が無くなり、世界が1つになろうとしている時代。真面目に自分の個性を伸ばし、自我を主張しなければならない時代になったのです。




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